第I部 エンジニアリング戦略の導入 ・ 第1章
著者は「自分で戦略を立てる機会が欲しい」と願う多くの優秀なエンジニアに数多く出会ってきた。一方で、いざ戦略を書くとなると何から手を付ければよいか分からず立ち止まってしまう人も多い。本書はそのギャップを埋めるために書かれた、実務に根ざしたガイドだという立場を最初に明確にしている。
重要なのは、本書が抽象的な戦略論の教科書ではなく、著者自身が現場で実際に下してきた意思決定の蓄積から組み立てられている点だ。著者はマイクロサービスへの移行、データベースの選定、巨大なモノリシックなコードベースの分割といった、エンジニアリング組織が直面する具体的で生々しい判断を題材にしている。つまり「べき論」ではなく、迷い・トレードオフ・失敗を含んだ実体験を素材に戦略の考え方を抽出している。
この姿勢の含意は、戦略は一部の選ばれた人だけのものではなく、現場の判断の延長線上にあるという点だ。日々下している技術的な決定こそが戦略の原材料であり、それを意識的に積み上げ言語化することが戦略立案の第一歩になる。
本書の理論的な背骨となっているのが、Richard Rumelt の『良い戦略、悪い戦略(Good Strategy, Bad Strategy)』で示された戦略の構造である。Rumelt は優れた戦略が「カーネル(核)」と呼ばれる3つの要素から成ると論じた。本書はこのカーネルをエンジニアリングの文脈に翻訳して用いる。
その3要素は次のとおり整理される。診断は、課題の本質を説明する仮説であり、いま影響を及ぼしている根本原因を特定すること。例として「WIP(仕掛かり)が多すぎてどのスループットも出ない」「スプリント計画の見積りが甘い」といった、状況の核心を言い当てる作業がこれにあたる。基本方針は、診断に対して取る一連の一般的な方針のこと。具体策そのものではなく、何を優先し何を採用しないかというガードレールを示す。例えば「全チームに採用を強制しない」ように特定の技術へ寄せる方向づけが該当する。行動は、その基本方針に基づいて実際に取る具体的な行動の集合である。診断・方針・行動が首尾一貫して連動して初めて戦略は機能する。
この章では、診断・基本方針・行動のそれぞれが具体例とともに簡潔に紹介される。著者は、この3層構造を意識するだけでも、現場の戦略づくりは格段に進めやすくなると述べている。本書全体がこのカーネルを軸に展開されることを、ここで予告している。
本書は他の多くの実務寄りの本と異なり、Rumelt のアプローチを土台にしている。これは、戦略の知的な側面と実務的な側面の両方を扱おうとする意図の表れである。戦略を語るとき、抽象的な概念論に偏りすぎても、逆に「とにかくこう動け」という実務テクニック集に偏りすぎても、現場で本当に使えるものにはならない。本書は両者の橋渡しを狙う。
もう一つの特徴は、戦略を一度きりの完成品ではなく継続的に改良していくものとして捉える姿勢である。著者は本書を書く中で、何度も同じテーマを読み返すたびに新しい事例に気づいたり、過去の記憶がよみがえったりしたと振り返る。戦略への理解は反復によって深まるものであり、書いて終わりではない。
この継続性の視点は、戦略を「動く生きもの」として扱うことを促す。組織や市場の状況が変われば診断も方針も更新する必要がある。完璧で不変の戦略を一発で当てようとするより、改良を回し続ける運用こそが現実的だという立場である。
著者は、戦略は本質的に複雑なものだという思い込みこそが混乱を招いていると指摘する。「複雑な意思決定の誤りや競合の予期せぬ動きのせいで戦略は失敗した」と考えるのは魅力的だし、国家レベルの大戦略では実際そうかもしれない。しかし著者の経験上、エンジニアリング戦略が失敗する理由はずっとありふれている。
最も多い失敗原因は、戦略を一度策定さえすれば、それがひとりでに展開されていくと経営幹部が思い込んでいることだ。次に多いのは、細部を検証する時間を取り忘れることである。どちらも華々しい難問ではなく、少しの構造を持ち込むだけで十分に防げる類の問題だという。
そのうえで著者は、本書のフレームワークが他のあらゆる手法を否定するためのものではないと断っている。むしろ、これまで出会ってきた多様なアプローチを統合し、あまり掘り下げられてこなかった観点をいくつか加えたものだ。たとえ本書の枠組みが読者に合わなくても、自分自身の戦略フレームワークを磨く助けになれば幸いだ、という謙虚な姿勢で締めくくられている。