第I部 エンジニアリング戦略の導入 ・ 第3章
将来のリーダー志望者と話すと「昇進しなければ戦略には関われない」という思い込みによく出会う。しかし著者はこれを根本的に誤っていると考える。明確な権限を与えられていないエンジニアであっても、戦略に有意義な形で取り組むことは可能だ。とりわけ、自分が使えるリソースを誠実に見極め、その活用方法を思慮深く考えられるならなおさらである。
著者は、明確な権限がない場合に効果的な進め方として「エレガントなパズル(An Elegant Puzzle)」になぞらえた手順を示す。要点は、(1) モデル化=現実をモデル化して全体像を把握する、(2) ドキュメント化=そのモデルや方針を文書にまとめる、(3) シェア=それを周囲と共有し巻き込む、というサイクルだ。これらは肩書きを必要としない、誰でも始められる行為である。
権限がなくても影響力は大きく依存しうる。たとえ意思決定の最終権限を持っていなくても、状況をうまくモデル化し、説得力ある文書を作り、人々を巻き込めれば、現場のエンジニアでも戦略を実質的に前進させられる。
経営幹部は、権限を持つがゆえに失敗から最も多くを学べる立場にある。著者は、実装に失敗してチームを去ったり、CEOのビジョンを実現できなかったりした幹部の例を引く。権限があるからこそ、長期的にはチームや組織にとって有益な戦略をやり抜けるが、失敗の影響も大きい。経営幹部のアプローチは次のように整理される。
命令(あるいは指示): 自身の影響力が持つ効果で進める。経営幹部には、戦略の遵守を強制できるという力がある。これにより、ばらけがちな組織の判断をそろえられる一方、自分の望む戦略を強く主張できる。十分な支持がない場合や複数を併存させる場合: 経営幹部は組織の方針をそろえたいと考えるが、必要なときには直接働きかけられる立場も持つ。自分の望む戦略を主張する。
ただし、十分な支持があるからといって、経営幹部の問題が消えるわけではない。「最も腰の重い者に合わせる」ように長期間続く大規模な戦略になりがちだという課題がある。こうした理由から、著者の経験では、経営幹部は戦略を実行することが自体は容易だが、戦略を立てて方針をそろえることが、重大な失敗の要因にもなりうると述べる。
エンジニアと経営幹部以外の立場、たとえばエンジニアリングマネージャーやスタッフエンジニアといった役割からも、戦略に取り組むことはできる。エンジニアリング組織の中で「どの立場が一番よくわかっているか」を考えると、これらの中間的な役割は、関連する部門や経営層の双方に橋を架けられる位置にあり、戦略をつなぐのに適している。
これらの役割は、一般的には自分にとって最も関係する範囲から戦略づくりを始めるとよい。プラットフォームチームのスタッフエンジニアなら自分の関わる技術領域から、エンジニアリングマネージャーなら担当チームの運用から、というように、自分の影響範囲を起点にすると有効である。
良い戦略は、状況に応じて適切に取り組めば必ず導入できる。しかし、状況によっては取り組みが難しい「困難な環境」が存在する。著者はその一つとして低信頼環境を挙げる。問題の診断という一種のスキルが必要で、難しい問題に対して効果的な戦略を書ける確かな経験を持たない場合もあり、やるべきことが明確でないために戦略を立てて取り組むのが難しくなることもある。
こうした困難な環境では、まず受け入れられる戦略を作ることに集中するのが現実的だ。完璧を狙うのではなく、その環境で実際に通る・支持される戦略を一つ立てることから始める。著者は、困難であっても適切に取り組めば、より良い状態へ向かっていけると述べる。
上位の戦略(より上の階層やプラットフォームの戦略)が存在しない場合でも、自分の領域で戦略に取り組むことはできる。著者は、自社のプラットフォームエンジニアリングの戦略に対し、上位の明確な戦略がなくても、自分の関わる部分から戦略を書き始めた経験を語る。上位がないからといって手が止まるわけではない。
むしろ、上位戦略の空白を自分の領域の戦略で埋めていくことが、結果として上位の戦略形成を促すこともある。下位から積み上げられた具体的な戦略が、より広い意思決定の参照点となり、組織全体の方針づくりを引き上げる。明確な上位戦略を待つのではなく、自分の手の届く範囲から書き始める姿勢が推奨される。
本書の主張は「誰もが戦略を担える」だが、それでもなお戦略に取り組むべきでない人はいるのか。著者の結論として、戦略に取り組むべきでない人はほとんどいない。ただし、戦略に取り組むのが合理的でない状況が2つあるという。
1つ目は「人」の問題ではなく「タイミング」の問題で、いま戦略を書いても支持を得られそうにない局面である。状況が整っていないときに無理に進めても定着しにくい。2つ目は「直近的で即効性のある影響を求める人」の問題だ。戦略は組織のトップダウンの戦略から、ボトムアップの戦略へと広く展開されるため、効果が出るまでに時間がかかる。即効性を強く求める人にとっては、戦略づくりは割に合わないと感じられることがある。逆に言えば、長期的な勝利を目指して取り組める人には大きな見返りがある。
この章では、エンジニアであれ経営幹部であれ、その他の役割であれ、あなたの今いる立場の中で戦略に取り組むことができると確認された。たとえ「ツール」は揃っていなくても、その組織と立場に応じた戦略への取り組み方は必ず存在する。
明確な権限がなくても、困難な環境でも、上位戦略がなくても、適切に取り組めば前進できる。戦略に取り組むべきでない人はほとんどおらず、問題になるのは「いま支持を得られるタイミングか」「即効性を求めすぎていないか」という点だけである。誰もが、自分の立場から戦略を担える。