第II部 ・ 第12章
本書はここまで、整然と洗練され結論の明確な戦略ドキュメントの作り方を説明してきた。だが現実の戦略は最初もっと乱雑なものであり、これらのテクニックを適用するには創造的な工夫がかなり要る。そこで生じる疑問が、「策定プロセスが混乱していたとしても、なぜ戦略ドキュメントは明確でなければならないのか」である。
著者の答えはこうだ。たとえ策定の道のりが曲がりくねっていても、最終的なドキュメントは明確で結論を提示するものであるべきだ。問題に対する判断が明示されていなければ、読み手は何を求められているのか分からず、戦略は機能しない。複雑なトピックを明確に伝えようとするからこそ、出来上がったドキュメントは整然として見える。混乱したプロセスから明確な成果物を生み出すのは矛盾ではなく、むしろ書き手の仕事の核心である。
戦略は本来じっくり時間をかけて練りたいが、現実には十分な時間が与えられないことが多い。Claire Hughes Johnson の著書『Scaling People(スケーリング・ピープル)』が言うように、計画づくりは、期限がある方が、無制限に時間をかけるよりもむしろ良い結果を生むことがある。締め切りは集中を促し、完璧を求めて先に進めない事態を防ぐ。
著者は、限られた時間で戦略を立てるための工夫を示す。たとえば、いきなり完璧なドラフトを目指すのではなく、まずは粗いドラフトを早く書く。重要な数点に絞って判断を示し、洗練は後から段階的に加える。短い時間で初稿を出すことで、早期にフィードバックを得て改善のサイクルを回せる。時間の制約を、戦略の質を損なう敵ではなく、集中を促す味方として扱う姿勢が要る。
「戦略は経営幹部だけのもの」という思い込みは根強いが、著者はこれを退ける。最上位のレベルにある戦略ほど影響範囲も広いが、それは戦略を使えるのが経営幹部だけだという意味ではない。あらゆる階層のエンジニアやマネージャーが、自分のレベルで戦略を使える。
権限のない立場でも、自分の影響範囲、所属チーム、関わるプロジェクトの中で戦略的に判断を下すことはできる。プロダクトエンジニアの組織でも、開発環境や採用の方針を自分のレベルで戦略として整理できる。著者は、自分の考え方は新人エンジニアからCTOまでどのレベルでも本質的に同じだと述べる。戦略を使うのに肩書きは要らない。
急速に進化するLLMエコシステムのように、企業が次々と道を選び続けるような混沌とした環境では、戦略の前提となる診断が頻繁に変わる。こうした急激な技術変化の中で戦略を立てるのは、安定した環境より格段に難しい。組織が選んだ道や利用できる技術が、数か月で大きく変わってしまうからだ。
こうした環境では、安定した環境向けに作った重厚な戦略を無理に維持しようとせず、変化に追従しやすい軽量で更新しやすい戦略を作る方が現実的だ。前提が変われば診断を更新し、それに応じて方針を見直す。著者は、混沌とした環境でも戦略づくりの基本(診断→方針→運用)は変わらないが、診断の更新サイクルを速く回す柔軟さが必要だと示す。変化が速いからこそ、頻繁に診断を見直すことが効果的な戦略の鍵になる。
戦略の前提となる情報が、信頼できないことがある。意思決定を支える情報が誤っていたり古かったりすると、その上に築いた判断も的外れになる。たとえばコスト削減のために全社のデータアクセスに二要素認証を課したくても、その判断の根拠となるコストの数字自体が信頼できないなら、方針は的外れになりかねない。
こうした状況で著者が勧めるのは、判断の根拠となった重要な前提を、ドキュメント内に明示しておくことだ。前提を明示すれば、後でその前提が誤りだったと判明したときに、どの判断を見直せばよいかが分かる。情報の不確かさを隠すのではなく、どの前提に依存しているかを正直に書き残しておくことで、情報が更新されたときに戦略を素早く修正できるようになる。
戦略を持ちながらに従うことに苦労するのは、実際には戦略を欠いている、あるいは曖昧な上位戦略の下で働く場合だ。診断もなく運用も伴わず、根拠のない方針に過ぎないものを「戦略」として押し付けられることがある。これは非常にストレスのたまる状況だ。
著者がこうした状況で最も効果的だと感じたのは、自分自身の戦略を書いてみることだ。上位の方針に同意できなくても、その診断の中で、動かせない事実として受け入れ、その制約の中で現実的な判断を下せるようになる。著者は普段このバージョンの戦略を共有しないが、同僚から判断の意図が分からないと言われたときには、自分用のプライベートな戦略の考え方を説明するようにしている。上位の戦略の弱さを公然と批判するより、その制約を所与として、自分のレベルで筋の通った判断を組み立てる方が建設的だということだ。
本章の冒頭で述べたように、エンジニアリング戦略の構築手順はあくまで理論であり、実践の場ではもっと乱雑になる。戦略ドキュメントが整然として見えやすいのは、複雑なトピックを明確に伝えようとしているからだ。
また、非現実的なタイムライン、上位戦略によって自分の戦略が無効化されること、カオスな環境での作業、戦略に同意してくれないステークホルダーへの対処など、完璧な戦略を阻む現実の壁を乗り越える方法を見てきた。最後に、他人の戦略が、診断も運用も根拠のない方針に過ぎない場合があることも学んだ。これらはすべて、良い戦略を作る過程で必ず遭遇し、乗り越えていくものである。